写真、撮る、見る


 
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【お知らせ】
年末に東京で写真展やります。来てね。
 
伊藤公一写真展「HOPE」
 
2015年12月21日〜27日 12:00-19:00
Photo Galley Place M ( http://www.placem.com )
 
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押せば撮れる。写真はそうです。出来上がったフィルムなりデータなりはそのままでは押して撮られた画像情報でしかない。その時点からずっと、画像情報そのものは完全にニュートラルです。これは常にニュートラル。あくまでその画像情報に意味をもとめるのは「撮影者」であり、「鑑賞者」です。
 
撮影者は「ただ目の前にある美しいものをそのまま写し切ってやるのだ」や「やべっ間違って押しちゃった」や「なんとなく目の前でいいなと思ったから」や「大日如来の名にかけて」や、その他いろいろのきっかけを持ってその画像情報生成を行います。出来上がった画像情報じたいには、よかれ悪しかれ撮影者の意図、もしくは企図と呼んでいいであろうナニモノカが、ある種のコードに則って練り込められる、もしくは練りこまれてしまう。これをここでは便宜的にナニモノカS(撮影者のS)と呼びます。
 
そして撮影者によってナニモノカSが練りこまれて、生成された画像が、基本的には鑑賞者、ないしは編集者としての撮影者、によって一度眺められ、ナニモノカSの変容や強化/弱体化をへて、写真として完成します。
しつこいですが注記しておくと、ベレー帽のおっさんが筆を置いて「うむ、できた!」的なパターンだけとは当然限らなくて、「はーい、じーどりー!」パシャ「あ、これで大丈夫、今日はありがとうございましたー」「あははー」みたいなの(どんなのだ)も含めてここでは”完成"と呼びましょう。実際にはレリーズを押して画像が記録されちゃっただけ、という場合も十分ある。
 
で、出来上がった写真は何らかの形で撮影者ではない人に提示されて、その画像を見る「鑑賞者」は、鑑賞者自身のもつコーディングルール的なものに従って画像からナニモノカをよみとっていく。写真に限らずですが、写真は特にそういう経緯を経ます。これをナニモノカK(鑑賞者のK)としましょう。朝ごはんを食べて写真を撮ってツイッターにあげてタイムラインで誰かが見て、というまでのよくある流れですね。
 
さきに細かい話をいっておくと、写真はいわゆる”作品”として、さらには日常の事物すべてに拡張することも出来ます。お前に提示されるすべてのものはシグナルとなるのだ、っていうやつです。男女間で喧嘩とかするとこういうすべてがシグナルじゃないかみたいな疑心暗鬼になったりしませんか。それです。あれ辛いですよね。話が逸れました。
 
で、そういう筋で進めると、写真の上手い下手って分解してみるといろんな言い方ができると思っていて、
 
(α)独創的なナニモノカSを練り込みにかかってる
(β)他の人では無理なアクロバティックナニモノカSを練り込める
(γ)ナニモノカSを練り込むコードが美しい
 
とか、いろいろな要素の合わせ技になるでしょう。練り込みたいナニモノカSはとても独創的なのに技法(コーディング)に失敗して頭でっかちな写真になってるーとか、ペラッペラとしか言いようのないなナニモノカSしかこの写真からはナニモノカKとして読み取れないけど、技法は超美麗でため息をつくほど素敵なので、きっとナニモノカSはその素敵な美しさそのものなんだろうな、とか。
 
ただすいません、この辺は僕が思想練り込み写真至上主義に偏ってる可能性を留意してもらって、言葉表現の傾き加減はわり引いて考えてください。
 

 
さて、この一連のプロセスにおいて、私が考えるここでの問題は3つです。
 
(1)ナニモノカSに"貴賎"はあるか
(2)従うべきコードのコーディングルールは誰が決めるものなのか
(3)ナニモノカSとナニモノカKは一致するか、一致する必要があるか
 
まず(1)のナニモノカSに”貴賎"はあるか、なんですけど、これは先に政治的に正しい回答でいうと「ありません」で、どの写真もどれも良い悪いありますよね、で終わりますが、それじゃあんまり面白くなくて。段落のこれ以降はぼくの極私的意見になりますが、撮影者としての私は、鑑賞者が写真に対峙しナニモノカKを生成する”コスト"に見合うだけのナニモノカSは最低限練りこむ格闘をするべきだと思っています。
 
あと、ナニモノカSを完全に他人の、もしくは既存の価値観から持ってきたもの(たとえば、写真教室の先生が指し示すお手本通りに作り込むようにがんばりました!ほらまるで先生のお手本写真みたいでしょう!的な)とされた写真は私は見ていて辛いと感じます。撮るのは当然好きにすればよくて、展示したりするのも別に好きにすればいいんですが、私はわくわくして行って見て伝統的な教室講師の価値観コピーがずらっと並んだ色鮮やかな写真ばっかり見て筆で芳名帳だけ書いてギャラリー出たら、希望としてはオリジナリティ的なの欲しかったなぁって、損した気分になると。webとかは好きにすればいいんじゃないですかね(適当)。
 
ついでのイトウの好みを言っておくと、絵本作家で、クリス・ヴァン・オールズバーグっていう人がいて、あの、ほら、「ジュマンジ」「ポーラーエクスプレス(急行『北極号』)」って映画あったと思うんですけど、あれの原作の人なんですが、その人が書いたモノクロの絵本に「ハリス・バーディックの謎」という珠玉の絵本があります。
 
その絵本は「ピーター・ウェンダーズという謎の人物が出版社に売り込みに来た絵本作品14本のイメージカットと短い説明文」ということで14枚のイラストと、それぞれに短い説明文が載っているものです。で、それがまたそのそれぞれのイラストが、すごいんですよ。ものすごく謎と不思議とワクワク感を秘めているというか。「これってどうなってるんだろう」「何が始まるのだろう」「どうなった結果がこうなんだろう」って、イラストの上下左右過去未来、全方向に対してイメージを膨らませたくなるんですよね。知らんがなってなるかもですが、僕はそういうのが好きです。
 
記録写真に興味がない個人的趣向もあるのは重々承知なので、そういう写真がいいんだっていう人もいて全然いいんですけど、僕は、目の前の写真をトリガにして写真の前後左右上下、過去未来、写真から引きずり出せそうな物語とか、はたまた撮った人や観た人の気持ちとかをいろいろ展開できるような、そんな写真を観たいなとつねづね思っています。できれば、自分もそうあろうと思ってます。同意してもらわなくてもいいです。あと「ハリス・バーディックの謎」は超おすすめです。お子様の情操教育にもぜひ。
 
さて寄り道しながらすすんでます。
 
次の(2)のコードのルールですが、本人の美観とか主義とかセンスとか、はたまた時代の様式(雑な言い換えをするなら「流行り」と言ってもいいです)を完全に無視した俺様ルールはナニモノカKの生成を阻害する要因になりますから、あんまり無茶をするばかりが良いことではないのではないかと思います。
 
ここは従来の規範に乗っかっておくという手も、ナニモノカSとナニモノカKの一致性なんかを重視するのであれば戦略的には有効だと思います。三分割構図連打とか、完全適正露出を狙うよ、とか、あくまでも余計な被写体は画面から排除するよ、とか。
 
ただし、あえてルールの独自確立を目指す道はあると考えています。ここでの独自確立っていうのはイメージしているのは、例えば、インクをボタボタ垂らす技法(ドリッピング)での表現を打ち立てたポロックとかああいう感じ。そこの色とかコントラストとかピントとか粒状感とかそういったものの取捨選択だったり見え感だったりをどうする(どうなる)か、はたまた構図をどうするどこを切ってどこを入れてどう写すどう隠すどうボカすどう配置するとどういうナニモノカKを生成しうるか、についての挑戦はアリだろうと。
 
(3)のナニモノカSとナニモノカKの一致を目指すべきかは、どうなんでしょう。どうなんでしょうね。これも私の個人的な見解ですが、たとえ一致を目指そうとも一致にいたることはない (身体性や価値観、環境影響なんかもきっとある)でしょう。ただしコーディングの段階で鑑賞者としての撮影者もまた撮影者の中に存在するわけで、そこのナニモノカSとナニモノカS’みたいな感じのやりとりには、一致を目指していろいろ悩むことになるんだろうと思います。「自分の出したいイメージにやっと近づきました!」みたいな。
 
三者の中に生成されるナニモノカKとの一致も、一義的には目指すべき話になると思うんですが、ナニモノカKを生成する鑑賞者想定は、必ずしも目の前の誰か、webで知り合っている友達、家族、など、「いまこの世に存在している実在の人間」である必要は必ずしもない、という既出の論を僕も支持したいです。撮影者にとって想定すべき鑑賞者像は、神の観察眼を持つ理論的理想鑑賞者であって、「いまの愚民どもに私の写真芸術は理解できないのだ」という姿勢も(技量確認をふくめた留保つきではありながら)肯定されるものである、僕はそう考えています。
 
毎度毎度オチもなくなんか同じようなもやっとした長文の話をいつもしている気がします。