あじさいのくに


   
この季節の塹壕堀りは良いことも悪いこともあります、良いことは地面がぬかるんで比較的掘りやすいことで、いざとなれば銃床で突ついて掘り進むこともできたからです。理官上がりの私からスコップを奪う者は居ませんでしたが、高校から即配置された初年官は飯の数は多い上官から員数合わせに奪われて泣きながらそうやって掘っていました。悪いこともまた、地面がぬかるんでいるため掘ったさきから泥水が溜まり続けてしまうことでした。施設隊が指揮する場合は排水も設計されましたが、そうでなければ急ごしらえでその辺りのことは後まわしにされてしまい、泥に半身を浸けて座り続ける羽目になりました。昼間は暑くなりますが夜はまだかなり冷え、ブーツに羊毛の靴下を履いていましたが足はぶよぶよした白い塊のようになりました。走ると剥けた踵が擦れて大変痛みます。手当をしてもキリがありません。熱を持った時だけ医務に頼んで薬をもらってしのぎました。
 
完全にこう着状態となったこの平野を、私たちの部隊はちまちまとジグザグに掘っていました。排水と落とし込みの破片防護溝をときどきは整備して掘り進んでは、散発的に観測射撃を撃ち込んでいました。時々は弾が飛んできました。はじめは甲高い音に全身が縛られるような恐怖を感じましたが、次第にだいたいどの辺に着弾するのか、音だけでわかるようになりました。しかし近い場所に着弾した時にはやはり恐怖でした。隣の濠に着弾し灰色の泥が降ってきたときも私は隅で震えていました。私だけでなく全員が震えていました。対照に、こちらが撃ち込んだ弾が向こうに着弾したときには大はしゃぎでした。弾のさきに誰がいたのかなどを考えたくなかったからかもしれません。灰色の雲の下ではそんな毎日を過ごしました。
 
すべてを掘り返し燃やし毀してしまった荒廃した地面ではありましたが、ある日、斥候に行った次官が紫陽花を手折ってきました。泥水を汲んで瓶に入れてそこに紫陽花を飾りました。紫陽花の八重咲くごとく弥つ代にを、いませわが背子、見つつしのばぬ。と次官がぼそりとつぶやきました。私は聞き取れずに聞き返しました。もういちどゆっくりと詠んでくれました。
 
自分は大学で国文学やってました、万葉集に収録された紫陽花の句は二首しかないんです、自分は葛城の生まれということもあってこれを詠んだ橘諸兄を調べていました、平城京から恭仁京に遷都させた人なんですが、この人の立てた都は長続きせずに放棄されて、もう完全に森の中に消えてしまっています。これまでにあまり調査もされておらず、歴史の中に埋もれてしまっているんです。とはいえいまはもうその森もないのかもしれません。どうなってしまいましたかね。私も同期も先生もみんな取られちゃいましたが、この塹壕もいつか遺跡になって森のなかに消えるんでしょうか。そう語った次官は瓶を壁に斜めに刺してふらふらと報告に向かいました。その日の晩は綺麗な月が出た夜になりました。紫陽花の青い花びらが空いちめんの星と溶けるように輝くように照られているのを見ながら交代で眠りました。
 
本格的な砲撃はこの日の未明から始まりました。砲撃に対して私たちができることはありません。あれはもともと人を狙って落とすものではないのです、自分の真上に来ないことを祈りながら鉄帽をかぶってただ震えているだけでした。連続で続いていた砲撃の音が一瞬止んだ気がして、おかしいなと思い、顔を上げた瞬間にそれはきました。目の前の空気が白く濁るのが見えました。初年官がくの字に曲がって飛んでいくのが見えました。私も大きな板で殴られたような衝撃をうけ飛ばされました。いつまで倒れていたかは分かりません。気がつくと泥に半分埋まっていました。みんな倒れていました。耳の音が籠って聞こえました。遠くで小隊が陣形を立て直していて、小銃を担いで濠を超えて突撃をするところでした。頭がぼうっとしていました。鼻と耳から血が流れているようでした。
 
拭かないと、目からは大丈夫か、耳と目を塞いだのはよかったのか、そうおもって服を探る手にさっきの紫陽花が手にふれました。あれだけの混乱のなかで紫陽花はなにごともなかったかのように凛として紫の色をはなっていました。あの夜の輝きを思いだしました。私は急に腹が立ってきました。あじさいのくせに。あじさいのくせにどうしてそう誇らしげに咲いているのだ。どうせ手折られなくても来月には枯れてしまう、夏を見ることなく萎れて枯れていくのに、どうしてそんなにも自信満々に咲いていられるのか。枯れることが、散っていくことがお前は怖くないのか、私はどうか、私は怖い、いまここに居ることが、次の瞬間に居なくなってしまうことが。あじさいのくせに、あじさいのくせにどうして、どうして。
 
私は隣で倒れていた友から小銃を掴み取って叫びました、こんなことで良いものか、この怖さを、あのあじさいは、私は、逃げるのではない、逃げたい、進まなければ、わたしはあじさいになりたい、ここで私は前へ進まなくては、そう立ち上がった私の顎を銃弾が抜けていきました。銃弾に弾かれた頰の骨が喉を突き破って頭の中で止まり、だんだんと血が溜まってきました。私は膝から崩れ落ちて倒れこみました。さっきのあじさいに私の血が降り注いで赤黒くなっていましたが、その奥にはまださっきの紫がのこっていました。触ろうとしましたが腕はまったく動かず、そして徐々に私の目が濁ってきました。