ハロウィン

赤山さまが噴火して半年が経った。
この半年は、控えめに言って地獄だった。

まず見渡す限りが灰に埋まってしまった。米を育てるなどは完全に不可能だった。そして租は変わらず取り立てられた。穀物にたぐいするものは何から奪い去られた。やせ細り、目だけをギラギラさせた庄屋さまが涙しながら見ていた、が、庄屋さまの比ではなくぎらぎらした屍のような侍がわさわさとわずかの米と、粟、稗、蕎麦を奪っていった。それらの種籾まで取られた。別の集落では娘が盗られたという話も聞いた。あいつらは鬼だと、力のない声で庄屋さまは言った。あいつらは鬼だが、どうにもならん。

山の奥の窪地にかろうじて隠していた畑も全滅であったように見えた、が、灰を掘り起こすと、地中に埋まっていた芋と、南瓜は無事だった。どこにそんな力が残っていたのかと驚くほど素早く掘り出した。芋は速やかに村中に配られた。重湯にした。じいさまは重湯を待つ間に事切れた。じいさまを埋葬したのは重湯を食べてからだった。誰も何も言わなかった。南瓜の中にひときわ大きなものが一つあった。それは何か神性的なものを放っていた。うっすらと般若の顔のような痣が肌にあった。

「般若様じゃあ、赤山さまがお怒りなのじゃ、これは日田室さまへの怒りなのじゃ、民草のための怒りなのじゃ…」
狐憑の見室のばあさまが繰り返しそう呟いていた。

南瓜はくりぬかれてやはり重湯にされた。我らは決起すべきだ、誰ともなしにそういう話になった。赤山さまの灰の影響がない地域では米価は安いままの筈である。そもそもこの地域では米の生産よりも現金収入となる牛馬出荷で生計を立てている。今後3年にわたる租の減免と廉価米の割り当てを申し立てよう、そう決まった。

南瓜の表面を削って皆の名前を書いた。こうすれば誰が首謀者かは分からない。全員が「他の奴にそそのかされたのだ」と強弁すれば切り抜けられる算段だった。南瓜の表面には実に54名の名前と、血判がしたためられた。くりぬかれた南瓜の中には蝋燭が入れられ、蝋燭のまわりには54名の切った小指が入れられた。私の小指もそこに加えられた。指が腐らぬように見室のばあさまが麝香(じゃこう)で燻した。蓋を閉める時にひどく金気臭かった。小指を落とした農民達の目だけが、薄暗い中に爛々と光っていた。

竃の煤で布を染めた。顔にも煤を塗り、何もかもを真っ黒にした。頬被りをしたものもいたが、彼らも真っ黒であった。灰黒に曇る空に光る、しかしまん丸な朧月の光線が妖しい虹のいろを仄めかせる中、赤くゆらめく麝香角灯を輿に担ぎ、ぞろぞろと歩きはじめた一行は、城下に達するまでに数千の灰黒の集団になっていた。

城下にある藩下の米穀商を囲むと、皆が銅鑼の合図で一斉に塀を壊しはじめた。米蔵もあっという間に破壊され、米俵はその場にぶちまけられた。米を懐に入れようとした不届きな民はその場で打擲された。この様に驚いた藩主は即座に奉行を角灯の前まで派遣し、今後三年の廉価米の割り当てと、租の現物納付を約束した。角灯は申し立てとして奉行に納められた。

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現在の静岡県伊豆半島南部の下田に相当する地で発生したこの"暴動"は、赤山(大室山のことではないかと推定されている)の噴火活動が収まったために一年限りで止むこととなった。
しかしこの麝香角灯と黒装束による上訴騒動が元となり、後年子供たちに対して反権力闘争的教育を施すという側面から高度に様式化された行事として練り上げられた。
後年には南瓜の形をした青銅製の灯りを持って市内を練り歩き、見送る側は行列に対して飴を配る「角灯行(らんたんこう)」として年中行事になっていたが、開国要求のため来日したペリー、ハリスが「角灯行」を見、その光の行列が織りなす美しさに感激し、日本に文明的文化が確かに存在していることを本国への報告書に書き記したことから「角灯行」の行事が欧米に伝わることとなる。
アメリカに伝えられた「角灯行」は、キリスト教的解釈によって異なった形へと変化し現在の「ハロウィーン」として洗練され近年日本へと逆輸入されるに至るが、下田に伝わる「角灯行」は皮肉にも旧時代的で反抗的な風習として明治年間中に廃れてしまい、今日、その形を伝えるものは僅かであるという。