寝正月

年末大晦日は店舗をやっておりません、
受け渡しのみの営業となるので十八時で閉店いたします。
どうぞお遅れになりませんように。お待ちしております。

予約の際に、電話口の向こうにいるであろうお姉さんはわざわざ、
優しく、そしてやや甘い声でそう注意してくれたのにすっかり忘れていた。

気づいたのは携帯に見知らぬ番号からの不在着信が四件も入っていたからだった。
十八時少し過ぎに地下鉄の改札を走り抜け、静かなビル街を駆けた。
のれんをおろす準備をしているおじさんのやや驚いたような顔を感じながら、
すみません、まだいけますか、と敢えて息せき切った様子でお願いをした。
すみません、おせちを、取りに来ました。

関東で過ごす一人きりの正月の過ごし方がよく分からなかった。

初詣に行くのも寒い、それならばいっそ寝正月を決め込もうと思った。
納会の翌日から部屋を掃除し、大量のお酒を買い込んだ。
食料については栗きんとんだけは自分で大量につくろうと決意したが、
いかんせん和食を男独りで作るのは無理だと他の料理は早々に諦めた。
幸い、やや非人間的な長時間労働の対価として小金は持っている。

ネットで調べた、超の付くほどの高級料亭に電話をした。
おせちを一人分、もう少し量があってもいいのですが、おねがい出来ますか。
普通は四人分からしか作っていないのですが、と困惑するお姉さんに、
お願いします、せめて、ひとりで過ごすお正月だから、
美味しいものを食べたいと思うのですと頼み込んだ。
少々、お待ち下さいと言われ、かなり待たされた後、
本来でしたらこういうことはしないのですがと、繰り返し言われた。
一人分をお包みしますので、三十一日、お受け取りにいらして下さい。

覚悟はしていたものの、手にして渡す時には狼狽してしまう額の代金を払った。
受け取ったおせちのお重は陶器製の二段重ねで、ずっしりと重かった。
紙袋に入れられたお重の上には縮緬の袋が乗っていた。
袋を開けると料理長か女将か、はたまた主人か、
偉い人の書いた達筆な挨拶文とお品書き、朱塗りの盃、
それと小さな徳利も入っていた。文は読めなかった。

徳利には甘く、形容しがたい香りの黄色いお酒が入っていた。
調べた時にはそんなものが付いているとは書いていなかったので、
一人分のおせちを取りにくる若く寂しい変わり者にたいして、
何らかの情けがかけられたのかもしれない。

六畳一間、フローリングの家は底冷えがした。暖房機は未だ押し入れの中である。
今年の寒さは大したことない、そう高をくくっていたのが完全に裏目に出た。
靴下を二枚履くことで寒さをやり過ごすことにした。
とりあえず冷えきった部屋のことは忘れて、
持ち帰ったおせちを座卓の中央にそっと鎮座させた。
陶器の器はやや黒みがかった朱色で、すこしざらっとした光沢を放っていた。

テレビが部屋にないという事実は、想像以上に気分を沈めるのに効果的だった。
冷蔵庫の鳴らす連続的な低音だけが響いていた。
その音に耐えられず、ワインを冷蔵庫から取り出してグラスに注いだ。
他の家庭ならおそらく紅白なり格闘技なり、お笑い番組なりの年末長大型番組で、
それなりの一家団欒を過ごしているのだろう。
友達と集まって鍋パーティーなどをやっている若者だっているに違いない。
年越しイベントに参加するという手だってあったはずだ。
なぜ他の手段をとることが出来なかったのだろうか。しかし考えるのをやめた。
手元の携帯を見た。一番近い着信履歴は12月22日、メールは26日だった。

フライング、とつぶやきながらおせちを開けた。
色とりどりの品々が、上品に整列していた。伊勢海老が僕の方を見ていた。
箸にとったおかずは口の中でやさしい香りを広げた。
蚫はしっとりと、煮物はあくまでほっこりとしていた。
魚はきちんと締まって、優しい味だった。蒲鉾でさえも、なにか違っていた。

空になったグラスにもう一度ワインを注いだ。もう三度だった気もしていた。
家庭で作る料理とは似ても似つかないその味を楽しみながら、
しかし思い浮かべるのは家の、郷里のことだった。
おせちの味はもう関係なかったのかもしれない。

途中で電話がなった。友達からの電話だった。
友達は、いまみんなで鍋パーティーをやっているんだ、と言った。
お前はなにしてんの、そう聞かれた。

家族と、これから家族になる人と、紅白をみんなで見ていると答えた。
そう、悪かったね、じゃ、切るよ。良いお年を。そう言って電話は切れた。
待ってくれ、切らないで、僕もそこに行っていいかな。そうは言えなかった。

ワインの瓶はすぐになくなり、すぐウイスキーに変わった。
もうおせちの味なんて分からなくなっていた。
食べて、食べて、飲んだ。頭痛がした。
それでも、食べて、食べて、飲んだ。
涙を流したりしないように気をつけながら。

気がつくと突っ伏して眠っていた知らない間に年を越していた。
激烈な吐き気と頭痛がした。膝のあたりが冷たかった。
ワインの瓶が倒れて床に血だまりのように広がっていた。
携帯がワインに使ってほのかに揺れていた。ズボンが紫色に染まっていた。
おせちはもう乾いていた。

頭痛に耐えながらワインを片付けた。時々は耐えきれずにトイレに駆けた。
勿体ないとは思ったが、残りのおせちには手を付ける気にならなかった。
全部食べてしまうと、何かに負けてしまう気が無性にしてしまった。
時計を見るとまだ朝と言って良い時間だったが、もう飲み始めることにした。
次は冷蔵庫に入れていた日本酒を飲むことにした。純米酒を用意していた。
日が高いうちに飲むお酒は背徳的な味がした。美味しいとは思わなかった。
ただ飲めばこの頭痛が収まるかもしれない、この気持ちが静まるかもしれない。
あの、すこし浮き上がる気分を、こめかみが暖かくなるのを感じ、そう思った。

飲んでは吐き、吐いては飲んだ。飲んでは吐き、吐いては飲んだ。
もう時間なんて感じたくない。ワインにまみれた携帯を捨てた。
パソコンも捨て、時計も捨てて、雨戸を閉めた。
ふらふらした足取りでコンビニへ行った。酔えるものなら何でも良かった。
カップ酒の6本セットを掴んでレジに向かった。
店員は怯えたような、不審がったような目でこちらを見たが、気にならなかった。
ただ、飲みたかった。

実家から両親が迎えに来た。
気がつけば半月近くが経過して、会社の上司から連絡が行ったらしい。
迷惑そうな大家と一緒にそろそろと入って来た両親は、
部屋に散乱するガラスのカップと、部屋に渦巻く酒とゴミの悪臭、
その中にあぐらをかいてコップを片手にする息子の様子に驚いたようだった。
ふわふわした気持ちの中で両親を見上げた。
もう、どうでも良かった。なぜか笑いが込み上げて来た。
ただ、この酩酊に浮かび上がる時間が終わりを告げていること、
おそらくはこの状況から脱しなければならないこと、
これから酷く辛い日々が幕を開けようとしていることだけは分かった。
これが最後の一杯か、そう呟いて後ろを向き、新しいカップ酒の蓋を開けた。
視界の端で、母が泣き崩れるのが見えた。

あけましておめでとうございます!今年もよろしく!
今年もこんな感じでのんべんだらりと行く所存です!
お酒はみなさん、ほどほどに!(父親に抱き起こされながら)