オリーブ

確か、ずっと日照りが続いて家畜も危ないんじゃないかと母と話をし、妹と二人で村の雨乞いのために葉っぱの冠をせっせと拵えている時に、その雨は降り始めた。家族総出で水を汲み、牛に水をやり、円筒分水の栓を抜きに行っては他の村人とも恵みの雨だとはしゃいでいたが、その土砂降りの雨が三日三晩降り続くと、私達の浮かれた気持ちも消え始めた。

これは大変なことになるかもしれない、この時点でいち早くそう考えた父の考えは慧眼ではあったが、堰留めてある土嚢を取り除かなければ、と、家族の大反対を押し切って合羽を被って出ていき、そして帰って来なかった。サイレンの音もかすむくらいの豪雨の中、とりあえず山上の祠に、ホラあそこまで避難すればもう安心だわ、あそこには大きな鍾乳洞があるじゃない、あそこだったら大丈夫よとしきりに訴え、家畜を放してから向かうからと言う私の言葉を聞きもせずに隣の夫妻は妹と母を連れていった。暴れる家畜を放すのに手間取りはしたがどうにか最後の一頭の手綱をはずしたところで、私の耳に聞こえてきたのが低い地響きと、からからんという金属的な響きであった。畜舎を飛び出した私は、豪雨の霞の向こう側にあるはずの山がなくなっているのを知った。痛いように降り注ぐ雨粒がなければ、目の前に広がる光景はまさに荒野であっただろう。人の声は聞こえなかった。ただ雨の音だけが凄まじく響いていた。

畜舎の奥の木卓で眠り込んでいた。気がつけば川の氾濫がここまで押し寄せてきていた。逃げようとするにはもう遅過ぎた。いつのまにか足下にまで迫った泥に足を取られて流された。濁流に混じって箪笥や柱といったものも流れてきた。ぶつかったら死んでしまう、そう思った私は流れの端へ、岸へ向かおうと泳ぎ続けた。無駄な試みだった。横には巨大な樹の幹が迫ってきていた。逃げ切れずに頭をぶつけた。朦朧とした頭で私はその柱にしがみついた。靴を両方とも脱がなければ、と、なぜかそんなことを思ったことを覚えているが、そのまま意識を失ってしまった。

意識を取り戻した私が見たのは、果てしなく広がる海であった。見渡す限りに陸はなかった。遥か遠くに、木で出来た巨大な四角い船が浮かんでいるのが見えた。助かるのだ、助かるのだ、そう思った私は力の限り叫ぼうとした。しかし出たのはかすれた声だけだった。おびただしい数の鳥が船に群がっているのが見えた。助かるのだ、助かるのか、私は助かるのか、この声は届くのか。この声は届かないのか。この声は届かないかもしれない。この、声は、きっと、届かない。

夜を迎えた。恐ろしく冷えた。咳き込むとごぼごぼと恐ろしい音が肺の中から聞こえた。船にかすかな明かりが見えた。泳げども届かない距離だった。水の下にいるかもしれないものは恐怖だった。明かりが遠ざかることは絶望だった。声が届かないことは焦燥だった。私に船が気づかないことは怒りだった。この声はきっと届かない。私はこうして惨めな死を迎えるのだ。

朝を迎えた。咳は激しい喀血に変わっていた。胸の奥に重く鋭い痛みがあった。しがみついた樹はオリーブであった。実はふたつ残っていた。諦めた私はその実をひとつ口にした。ほろ苦い味が口腔いっぱいに広がり、私の体を駆け巡った。とめどなく涙が溢れてきた。恐怖だった。絶望だった。焦燥だった。怒りだった。もういちど咳き込んだ。ごぼりという音を立てて血が溢れた。海に落ちた血がふわりと広がった。もうこの世界に希望はない、だからこの樹から手を離そう、そう思ったとき、樹に一匹の白い鳩が飛んできた。私は鳩にもうひとつのオリーブを渡した。鳩はそれをくわえて、こくり、と飲み込んだ。樹に残る若葉を一房ちぎり、私は鳩に差し出した。鳩はそれを小さくつまんで、ふいとこの樹を後にした。周りに陸地は全く見えない。せめて彼らにぬか喜びを。

私は手を離した。ゆっくりと水面の奥に沈む私がもう一度咳き込んだとき、海の中に広がった血は、ふわふらゆらふらと広がって、痛みと苦しみ、水を飲んで意識を失う直前の私に手を振っているように見えた。血はすぐに海に混ざって溶けて消えた。