続・素敵写真を撮るために必要なたったひとつの冴えたやり方

綺麗でも汚いでも凄いでもびっくりしたでもなんでも良いんですが、何かを見て何らかの感情を持ったとして、その感情を他の人にも感じて欲しいという動機を実現する方法はなにか。それは必ずしも写真でなくたっても構わない、ひとつの手段に固執する必要もない、言葉を尽くして語っても良いし、踊ったっていい、叫んだっていい。絵筆を握るもよし、彫刻刀で語ったっていい。

写真だってデジタルだろうがアナログだろうが、プリントだろうがwebだろうが、どうやろうか、は実現方法の選択という技術論に過ぎず、で、たとえば写真を選んだとして、その見たものを撮っただけでは、それは単に「自分の感情のきっかけになったものを記録した写真」であって、その写真自体が伝えたい誰か、他の人にその共有したい感情を想起させる写真なのかは必ずしもイコールではないですよね。相手の感情のトリガを叩くものはなんなのかを考えてやる必要があるのではないかと思います。細かい話は全てその後についてくる。
 
それがテクスチャなのか、コントラストなのか、はたまた繊細な色彩のグラデーションなのか。
 
たとえば桜を見た時に感じた感情を共有してもらうのに、他に良い手段があるのであれば、無理して桜を撮る必要すらない。極端なことを言えば、相手の感情トリガがそれで発火するのであれば、QRコードを撮って提示したって構わない訳です。
 
題名を付ける、カラーかモノクロか、後処理を実施するか、合成はどうか。伝達のことを考えるならば、それらはみなこの「何が相手のトリガを叩くか」の観点から選定されるべきです。
 
とはいえシャノンの情報理論的な、制作側の提示したい情報を、なるべく鑑賞側に忠実にノイズ少なく相手に流し込むのだ、という考えよりは、各々が主体的に目の前のものに対してどういったものを生成出来るかの多様性、広がりの良さも視野に入れた選定をした方が良いと、これはまた個人的な意見ですが、私はそう考えています。幅が広がらない、万人の感想が一致するものはすでに死んだ表現であるという意見は、完全同意ではありませんが納得できるものがあると思います。
 
ともあれ、制作する側は提示するモノの各部がどういった発火をさせうるのかの練り込みに全力を投じれば良いし、鑑賞側は提示されたそれらから何を得ることが出来るのか、なにを拾いだすことができるのか、自分の中でどんな感情振幅が発生するかを味わい尽くせば良い。そう思います。

ただし、そのトリガのもとになるものは一体なんなのか、そのスイッチを入れたことによって想起されるものは何に由来するのかについては、少し自覚的であった方がよい。
 
例えば、ナニモノカを「かわいい!」と思うとしましょう。自分のことでも他人のことでも構いません。その気持ちはいったいなぜそう思ったのか。あなたは本当にそれをかわいいとおもったのですかね?単に「みんなが(もしくは、誰か尊敬する偉い人が、)それを可愛いと言っているから」「世間一般にそれは可愛いと言うことになっているから」「ここではこれをかわいいと思っておかないと△△さんにいじめられるから」などという、いわゆる社会的に付与された「かわいい!」タグに反応しているだけではないのか。
 
それとも、魂の奥底が震える根源的なところからの原因不明の感情なのか。
 
どちらが良いという訳では必ずしもないとは思いますが、ただ「こうすればカワイイということになるから」という理由でピンクのハートマークをポンと置く、置かれた方はピンクのハートマークが持つ記号性、あるいは単に「そう言っておいた方が良いと思うから」「あの人が置いたから」という人間関係に引きずられて「カワイイ!」「素敵!」「いいね!」と社会的に反射しているだけではないか、という観点を持つこと、そのあたりの認識について意識的であろうとすること。
 
そういう考え方もまた、鑑賞と制作に関わるのであれば持っておくのがよいのではないか、私はそう考えています。
メタにメタに考えすぎると「斜に構えて裏読みできる俺カッコいい」になってしまうのでそれはそれでアレな感じしますが。
 
========
 
※この話に関してのおすすめ書籍は、佐藤亜紀著の「小説のストラテジー」と「小説のタクティクス」。
上の話では無視していた「相手とは誰を念頭に置くべきか」などの話まで含めて激烈に明晰な議論が展開されています。必読です。

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)