時計

夏のある日、たかし君は空き地で格好よくて古い時計を拾った。
お家に帰って台所で綺麗に拭いたらピカピカになった。
腕に嵌めたらあつらえたようにぴったり嵌まり、時計を振ると針が動き始めて、
これはパパが使っていて以前説明してくれた自動巻きってやつだって分かった。
ママに僕にも腕時計が欲しい、腕時計が欲しいと言っていたけれど、
そんなの贅沢だから、と買ってもらえなかったのだ。

ああこれは僕に神様がくれた時計なんだ、そうに違いないとたかし君は嬉しくなった。
でもこれがママに見つかるともとの空き地に返してきなさいって取り上げられちゃう。
ママに見つかるといけないから、これは隠しておかなくちゃ、
そう思ったたかし君は二階の部屋にあがった。机の裏に置いてある秘密の缶に時計を入れるのだ。
部屋の扉を開けると、たかし君はベッドの下にいた女の人と目が合った。
たかし君はびっくりして廊下に後ずさった。

女の人だと思ったのはなんと人間の顔がついた巨大な蜘蛛で、
返せ、その時計を返せと、恐ろしい形相で叫んできた。
蜘蛛の胴体から生えた沢山の足一本一本にはたくさんの腕時計がびっちりと巻かれて、
ぎらついて眩しいほどだ。蜘蛛の顔は長い髪をしていて、
髪の間からは真っ赤に充血した目がこちらを睨みつけ、
白い顔に浮かぶ真っ赤な唇からは、これまた赤くて長い舌がちろりと蠢いている。
たかし君は時計を返そうと必死にベルトを外そうとしたけれど、
腕が震えてベルトを持つことが出来ない。おまけに時計はぴっちりと腕にはまって全く取れず、
足から力が抜けたかし君は、廊下にへたり込んでしまった。

おぉぉぉまぁぁえぇぇぇかえぇぇせぇぇぇ、窓ガラスがびりびりと震えるほどの大声で叫びながら、
蜘蛛はたかし君に襲いかかってきた。たかし君はもう怖くて訳も分からずに震え、
自分の歯がガチンガチンと大きな音を立てるのをただ聞いていた。
蜘蛛はたかし君の足首を掴むと、ベッドの下に引きずり込んだ。

埃の舞うベッドの下で銀色に光る蜘蛛の足に首を絡めとられながら、
たかし君はこれまで見たこともない素敵な世界への冒険に旅立つ夢をみていたが、
その夢が母親によってノートに記録されたものが焼け跡から回収されて復元され、
後日出版され「妖怪ウォッチ」となるのである。

アナと雪の女王

アナと雪の女王』レビュー!

白く暗い闇の中で手紙を書く生活ももう三年が経過しました。

私達の街が蹂躙され、文官に近かったとはいえ配属を受けていたがために連れ去られ、番号を付けられて丸太の宿舎に押し込められては日々交代で大きな木を切り倒し続ける生活。看守の目付きに見て見ぬふりをしながら黙々と作業に取りかかり、鋸を挽いては倒れた木に縄をかけて麓まで運ぶ男達に渡し、手を抜けば殴られ、力を込めればノルマが増え、笑えば看守の顔が視界に入り、泣けば部屋にも居場所が無くなる。

そう言った日々を唯一慰めてくれたのが、お姉さまに貰った小さな熊のぬいぐるみでした。決して可愛いとは言えない、なんとか身体検査をくぐり抜けて持ち込まれわずかな小さな宝石が中に埋め込まれた今となっては薄汚れたそれは、きっとお姉さまがこの事態を察知して私に渡してくれたのでしょう。暗く揺れるカンテラの明かりだけを頼りに、袈裟にさげた熊を取り出してはもう行方も分からないお姉さまに向かい自らの近況を剥がした木皮の裏に書く、その間だけは寝床を這い回る南京虫の感触を忘れ幸せな時間に浸ることができました。

手紙には楽しいことだけを書きました。鋸のしなるふわっとした優しい音、たまの待機に聞く深々と積もる静かな雪の音、スープに時より混じるタラの白い身、ケディの笑う声。しだいに手紙にはケディのことばかり書くようになりました。年齢をごまかして配属を得たので私達のなかではとびきり一番に若く、そしてとびきり明るい子でした。宿舎の作業を押し付けられ、錆びた鋸ともう碌に体が動かない人とペアにされて仕舞ってもいつだってニコニコと笑っていました。くるくると働くその手つき、タラの身を掬っては歌うように歓声をあげるまん丸の目、満足に体も洗えないなかでも綺麗にといた茶色の髪の毛。ケディはともすれば沈みがちな私達を優しい気持ちにしてくれました。

しかしひときわ寒いある日にケディの姿が見えなくなりました。見張り所に駆け込んで看守に話をしても何もしてくれず、橇など出してくれる気配すらなく、仕方なく私達は、正確には私達のなかの一部が、四人一組で吹雪の舞う森の中を探し廻りました。ケディを呼ぶ声はあっというまに森の中に吸い込まれていき、膝までもぐる雪が私達を襲いました。夜半を過ぎて私達は宿舎に戻り、凍えながら重なりあって朝を迎えたものの、ケディの姿は見当たりません。鋸を挽く生活が真っ暗なものになり、私達は物も言わず木を切り倒しつづけました。気候など関係なく、私達は全くの闇の中を彷徨っているようになり、何を食べても味がせず、木を切る鋸の感触はなくなり、倒れるものも出てくるようになりました。これまでも弱っている者からいなくなっていきましたが、それに拍車がかかり、私達の宿舎もどんどん閑散としていきました。

ケディが見つかったのは翌月でした、徘徊し遭難して倒れ込んだのが川の水面であり溺れて流されたらしく川の下の方に浮かんでいた、という看守の説明でした。しかし再三の求めは冷たくあしらわれ、結局遺体には会わせてもらえませんでした。私達はただ彼女の荷物だけを埋め、木片で小さな祠をつくることが精一杯。お姉さまに書くことが無くなり、鉛筆と熊をただ見つめるだけになりました。

私の世界は暗いものとなりました。この白く静かな闇の中でただ命を磨り減らして生き、擦り切れた瞬間が私の最後として消え去ることとなるのでしょう、何のために私は生きてきたのか。突如として幸せだった、そう、今よりも幸せだった時の記憶が衝撃のように私を襲ってきました。おじさま、先生、アントン、お母さま、お父さま、お姉さま、ケディ、ああ、あの街よ、あの世界よ、降り注ぐ太陽、健やかな風、果実の香り、青い空よ!私にはもう幸せと呼べるものなど何一つ残っては居ないのです、もう焔は消え去りました、この白い闇の中で私は朽ちていくしかないのです。

私は熊を持って宿舎を出ました。不思議なことに裸足でも寒さなどは全く感じません、熊から取り出した裸石を持って看守に近づきました。銃を向けてきたひげ面の男は、

銃を向けるでもなくにやけた笑いを向けてきた看守に宝石をその手に握らせながら笑いかけると彼は白く濁って頽れました。

柵を越えた私はもう自由でした、木々の中を泳ぐように駆け抜けると私のまわりには白い光が溢れているようでした。体も軽く、この光が全てを覆い、目もくらむように私を包み、気が付けば豪奢な椅子に座る女性の前に立っていました。横にはケディが、私に向かい微笑んでいます。その女性は羽衣を取っては私に被せ、こう言いました、アナ、貴方は選ばれたのです、こうして雪の世界へと誘われ私達とともにこの冬の世界を守り続けるよう。ケディが貴方のことを話しておりました、そう、この世界に焔など必要ありません、雪を、完全なる白き雪を。アナよ、我らとともにこの不完全なる世界を十全たらしめようではないか。私は羽衣を肩にかけてうなづきました。

小屋から運び出された白い身体が川へと投げられるのを見かけましたが、私にはもう関係のないこと。なぜなら、この雪の世界を、女王とともに完璧に美しいものへと変えていくことが出来るのですから!私は小屋にそうっと息を吹きかけました。見る間に小屋が白く埋まり、さらに私は小屋をつまみ、優しく押しつぶしました。世界はあくまで白く、また世界がこれで十全に近づいたのです。お姉さま、女王さまにお願いすれば会わせて頂けるでしょうか、この世界が白く綺麗なもので満たされたら、またお手紙を書こうと思います。私は元気です。またいずれのとき、いずれかの地で、ふたたびお会い出来んことを。

New Petzval レンズ でボケ写真を撮って遊ぼう!


EOS-1D X + Lomography Petzval 85mm F2.2

Lomography がKMZ(ロシアのレンズ工場)と協力していにしえの大口径レンズ Petzval レンズ復活を行うべく、
クラウドファンディングで開発資金を募ってたので、
私はその出資者(パトロンと言います)として出資してましたが、
先日その出資に対するリターンとしてペッツバールレンズが送られてきました。

せっかくなので Petzval レビューします。
ボケが独特のこのレンズ、好きな人は好きになるだろうなぁと思います。僕は好きです。

※この記事で撮影された写真は撮って出しではありません。私が好きに調整しています。

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【1:開封篇】

豪華な箱に入って届きました。LC-A を買ったときのあのロシアンチープな感じは全くありません。
箱の横のはおまけで付属したトートバッグ。A4書類がすっぽり入る結構大きいサイズで使いやすそうです。


箱を開けるとこんな感じ。顔写真のは作例とマニュアルが載った冊子です(後述)。


レンズは限定の刻印入り黒モデル。塗装はマット地かと思っていましたが、予想外に光沢。
指紋や腐食を考えるとこの光沢塗装の方が良さそうです。


レンズキャップとレンズ本体。開発資金目標達成のおまけで真鍮の黒いキャップが付属しました。


シリアルナンバーと検品のサインが。私は600番台でした。


ピント調節は一般的なヘリコイドと違ってノブを回します。
最至近から無限遠まで100°くらい、意外にピント合わせ時の進み量は大きいです。
素早いピント合わせが出来るというべきか、細かい調節はちょっと、となるか…。
私にとってはちょうどよいくらいの敏感度。細かい調節も普通に可能と思っています。


そうそう、素敵な茶色いスエード調の革製レンズポーチも付属してます。おまけ攻撃。


ただしこのレンズポーチ、けっこう小さめで、かなりぐいぐい押し込まないとレンズしまえません。
写真はなんとか押し込んだあと。いったん入ると座りは良さそう。



絞りは固定絞りをレンズ上部のスロットから差し込むウォーターハウス式絞り。
昔むかしの写真用レンズなんかはこの方式だったそうです。※博物館で見たことあります、レベル。

このペッツバールにも、開放F2.2からF16まで各絞り径のプレートが付属します。
端部はエッジで仕上げられていて、ゴーストにも配慮されている様子。
茶色く塗装された金属板で質感はとても高いです。

ただしこの絞りプレート、
逆さにすると落ちる
縦位置でも滑りやすい
移動時には無限遠にしておかないと抜ける
という実用に支障が出る感じの面倒くさいトラップがあるので、扱いには注意が必要です。


諸事情(リターン内容として「真鍮製の"前後"キャップ」付属、というアナウンスをロモが行ってしまったミス。
実際は真鍮製なのはフロントで、リアはプラスチック製です)
のお詫びとして用意されたおまけの絞りプレート。
ボケの形が星になったり涙形になったりします。
これは別で製作されたのか、塗装が黒く塗られていたり、板金を抜きっぱなしで
絞り部がエッジになってなかったりと、付属の絞りプレートとは異なる仕上がり。

クラウドファンディングの特徴なのかロモの気質なのかは分かりませんが、
今回のプロジェクトは、とにかくおまけが次から次から添付されてくるイメージでした。
あまりのおまけ攻めに、そんなに気を使わなくても良いのに、と思ってしまいます。


さて、最初の方の写真に出てきた人の顔が映ってる冊子、中身は魅力の紹介を兼ねた写真集です。
文字記載は基本的には英語、ペッツバールの歴史紹介や、作例写真などがたくさん載っています。


冊子の後半にはマニュアル(と言っても簡単なものですが)が。これは各国語。日本語もあるよ。



この到着したペッツバールレンズ全体をみて思うのは、ロモというイメージには全くそぐわない品質の良さと質感の高さ(失礼)。

どうしてもLC-Aとかスメナ8Mとかあの辺の思い出から、ロモの製品として想像するのは
「面白いけど壊れやすい」
「面白いけどプラスチッキー」
「面白いけど品質が…」

という、「面白いけど△△△」という側面。
今回はKMZの側面が強かったのかどうか分かりませんが、非常に質感と仕上げが抜群に良い、素敵なレンズが届きました。

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【2:実写篇】

<ぐるぐるボケについて>

ペッツバールと言うとぐるぐるボケが有名で、好きな人にはたまらんボケを描くんですが、狙えばこんな↑感じですごく出ます。
見てくださいこのボケ感を!現代のレンズ評価からすると粗悪品以外の何者でもないですよ!このボケが欲しかったの!素敵!

…とはいえ、ぐるぐる感がいつも出るとは限りません。試しに同一地点から同一被写体を撮り比べました。
被写体は約1.5m先の地面に落ちていた新聞紙です。

A:まずは立った位置から。

あまりボケてはいないです。

B:つぎに中腰で。

こうやると背景と主被写体の距離が程よく出て、ぐるぐる感が出てきます。

C:最後にしゃがみ位置。

ぐるぐる感はあるんですが、無限遠の背景ではそれほど強い印象を与えません。

…他にもいろいろ実写してみたんですが、どうやら、開放でぐるぐるが出やすいのは
次のような一定の条件が揃った時のようだと言うことが分かってきました。
※これはちなみに KMZ Helios-40 も同じ印象です。

  • 主被写体と背景に程よい距離差がある:1mくらい以上離れると良さそう
  • 背景は高周波かつ高コントラストである:模様のある壁紙とか、木漏れ日とか
  • 背景は無限遠ではない/無限遠の場合はコントラストが強いor点光源がある

これらの条件をキャッチすれば、いつでもどこでもぐるぐるライフ!

<実写感想>

  1. ど中央以外は甘い
  2. ぐるぐるボケで有名なHelios-40よりも全然甘い
  3. 意外に軽くこれなら気軽にすいすいと持ち歩けそう
  4. ノブ式のピント合わせは割とやりやすい
  5. 絞りプレートは落としやすい!移動時にレンズを無限遠固定は必須
  6. 開放しか使わない人はパーマセルで固定してて良いんじゃないか
  7. 真鍮キャップも超!落としやすいので持ち歩き時には外しっぱで良いのではないか
  8. ファインダでピント合わせしにくいのはそもそもピントが甘いからです
  9. あ、前ボケは普通にボケるんですね



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けっこう素敵なペッツバール、今なら一般販売用もあるらしいので、ご興味のある方は、是非。

Final Cut Pro X でEOS-1D X 動画を編集する

東京は原宿を歩いた際に EOS-1D X でぱらぱらと撮影した動画を、 Apple のほこるプロ用動画編集ソフト Final Cut Pro X を使って編集してみました。

そして作成された動画がこちら。鯉のぼりがふわっと浮かぶ瞬間が僕はとても好きです。
※大きい動画は Vimeoのサイトでご覧下さい。

KOINOBORI from Zeissizm (Koichi Ito) on Vimeo.


【 Final Cut Pro について 】
編集のやり方は意外に簡単。個人で適当にやる程度であれば以下のステップをやればクリップが作成出来ます。
簡単に言うと切って並べて調節して終わり。

  1. 素材を読み込む
  2. タイムラインに使いたい部分を置いていって並べる
  3. BGM と合わせる
  4. キャプションをつける
  5. トランジション(画面の移り変わりなど)を調整する
  6. 長さや画質をマウスでぐりぐりと微調整する

作ったクリップは ProRes で書き出してから、 Adobe Media Encorder CS6 でリサイズと圧縮をして使っています。

使い勝手的には、Mac に標準で付属しているソフト「 iMovie 」と似ていて、「 Final Cut Pro は iMovie Pro だ」と言われてますねというお話もしっくりきます。iMovie を使っていれば割と操作性的に共通点が多いので取っ付きやすいかもしれません。私はそのクチです。

じゃあ iMovie で出来なくて Final Cut Pro X で出来ることって何よ、という話になって、えーっと、うーん、きっといろいろ、本当にいろいろ出来ると思うんですが(なにせハリウッド映画も編集出来るプロ用ですから)、私がちょっと気づいた範囲だとこのあたり。

  • キャプションの自由度が非常に高い:文字の配置や大きさの指定が自由自在。重ね付けも可能(らしい)
  • 再生速度調整の自由度が高い:クリップの尺に再生速度を合わせ込むことも可能
  • 読み込める動画の種類が多い:4Kも楽勝だとか、高品質な編集用圧縮形式である ProRes もサクサクとか
  • トランジションの種類が多い:私はあまり使わないので恩恵は少ないですが、いろいろ出来ます
  • キーフレーム設定が出来る:私はあまり使わないので恩恵は(ry
  • Motionとの連携がスムーズ:私は使わな(ry

…こうやって見てると「その編集って別に iMovieで良いんじゃね? 」と言われそうです。実際その通りだと思います。とはいえ文字の位置調整などはとても使いよいので、iMovieでキャプション調整にイライラしっぱなしな人なんかは、これだけの為に乗り換えても損はないと思います。ただしマシンパワーを相当に喰うらしく、Late 2009 な我が MacBook Pro では重過ぎて正直非常に使いにくいです。

【 EOS Movie について 】
EOS-1D X の動画、ボケと高感度に強いところはとても素敵なんですけど、なんだか眠いというか、甘いというか、そういうところが気になってきました。5D2よりもちょっと眠くなっている気がします。最初は気のせいかピント合わせに失敗したかと思ったんですが、そうでもないっぽい。そのため、動画と静止画でそれぞれシャープ強めとシャープ弱めのピクチャースタイルを作って使い分けています。動画はシャープちょっと強め。

…とはいえあんまりモアレは出ないので、その辺とのバーターなんでしょうか。動画専用機にあるようなすっきりしゃっきりした画質で撮れたらもっともっと素敵なんですけど。

あと早回しでスローモーションしたいよね。ちょっとオサレなクリップだとすーぐどいつもこいつもスローモーションしてちょっとそれはなんだかなぁスローにしときゃお前ら素人はかっこ良く感じるでしょ感が鼻につくなぁと思わんでもないですが、やっぱりスロー画像は素敵。

そしてこの動画に使ったレンズ、EF35mm F2 IS USM は個人的に動画の常用と位置づけるとても便利で綺麗なレンズです。手ブレ補正もよく効くし、軽いし、小さいし、言うことなし。


※この写真は動画とは関係なく、しかもEF50mm F1.4 USMで撮影されました。

【その他】
「偶然による奇跡の一枚」はあるかもしれませんが、「奇跡の動画作品」はなかなか難しい。他人の鑑賞に耐えるひとまとまりの動画クリップを作るのは、慣れないと写真よりもとてもとても難しいなと思っていて、でもそこがとても楽しいです。一眼動画はなかなか思ったよりも普及していないようですが、やってみると嵌まる要素はたくさんある(あ、なかなか普及しないなと思う要素もたくさんある)ので、一眼レフで動画撮れるんだけど撮ったことない!という方はぜひやってみると面白いかと思います。

続・素敵写真を撮るために必要なたったひとつの冴えたやり方

綺麗でも汚いでも凄いでもびっくりしたでもなんでも良いんですが、何かを見て何らかの感情を持ったとして、その感情を他の人にも感じて欲しいという動機を実現する方法はなにか。それは必ずしも写真でなくたっても構わない、ひとつの手段に固執する必要もない、言葉を尽くして語っても良いし、踊ったっていい、叫んだっていい。絵筆を握るもよし、彫刻刀で語ったっていい。

写真だってデジタルだろうがアナログだろうが、プリントだろうがwebだろうが、どうやろうか、は実現方法の選択という技術論に過ぎず、で、たとえば写真を選んだとして、その見たものを撮っただけでは、それは単に「自分の感情のきっかけになったものを記録した写真」であって、その写真自体が伝えたい誰か、他の人にその共有したい感情を想起させる写真なのかは必ずしもイコールではないですよね。相手の感情のトリガを叩くものはなんなのかを考えてやる必要があるのではないかと思います。細かい話は全てその後についてくる。
 
それがテクスチャなのか、コントラストなのか、はたまた繊細な色彩のグラデーションなのか。
 
たとえば桜を見た時に感じた感情を共有してもらうのに、他に良い手段があるのであれば、無理して桜を撮る必要すらない。極端なことを言えば、相手の感情トリガがそれで発火するのであれば、QRコードを撮って提示したって構わない訳です。
 
題名を付ける、カラーかモノクロか、後処理を実施するか、合成はどうか。伝達のことを考えるならば、それらはみなこの「何が相手のトリガを叩くか」の観点から選定されるべきです。
 
とはいえシャノンの情報理論的な、制作側の提示したい情報を、なるべく鑑賞側に忠実にノイズ少なく相手に流し込むのだ、という考えよりは、各々が主体的に目の前のものに対してどういったものを生成出来るかの多様性、広がりの良さも視野に入れた選定をした方が良いと、これはまた個人的な意見ですが、私はそう考えています。幅が広がらない、万人の感想が一致するものはすでに死んだ表現であるという意見は、完全同意ではありませんが納得できるものがあると思います。
 
ともあれ、制作する側は提示するモノの各部がどういった発火をさせうるのかの練り込みに全力を投じれば良いし、鑑賞側は提示されたそれらから何を得ることが出来るのか、なにを拾いだすことができるのか、自分の中でどんな感情振幅が発生するかを味わい尽くせば良い。そう思います。

ただし、そのトリガのもとになるものは一体なんなのか、そのスイッチを入れたことによって想起されるものは何に由来するのかについては、少し自覚的であった方がよい。
 
例えば、ナニモノカを「かわいい!」と思うとしましょう。自分のことでも他人のことでも構いません。その気持ちはいったいなぜそう思ったのか。あなたは本当にそれをかわいいとおもったのですかね?単に「みんなが(もしくは、誰か尊敬する偉い人が、)それを可愛いと言っているから」「世間一般にそれは可愛いと言うことになっているから」「ここではこれをかわいいと思っておかないと△△さんにいじめられるから」などという、いわゆる社会的に付与された「かわいい!」タグに反応しているだけではないのか。
 
それとも、魂の奥底が震える根源的なところからの原因不明の感情なのか。
 
どちらが良いという訳では必ずしもないとは思いますが、ただ「こうすればカワイイということになるから」という理由でピンクのハートマークをポンと置く、置かれた方はピンクのハートマークが持つ記号性、あるいは単に「そう言っておいた方が良いと思うから」「あの人が置いたから」という人間関係に引きずられて「カワイイ!」「素敵!」「いいね!」と社会的に反射しているだけではないか、という観点を持つこと、そのあたりの認識について意識的であろうとすること。
 
そういう考え方もまた、鑑賞と制作に関わるのであれば持っておくのがよいのではないか、私はそう考えています。
メタにメタに考えすぎると「斜に構えて裏読みできる俺カッコいい」になってしまうのでそれはそれでアレな感じしますが。
 
========
 
※この話に関してのおすすめ書籍は、佐藤亜紀著の「小説のストラテジー」と「小説のタクティクス」。
上の話では無視していた「相手とは誰を念頭に置くべきか」などの話まで含めて激烈に明晰な議論が展開されています。必読です。

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

EF35mm F2 IS USM + EOS-1D X で動画を撮ったよ!


若草山にて:Canon EOS-1D X + EF35mm F2 IS USM

…Distagon 1.4/35 T* はあるんですけど、
動画ではぷるぷる震えて手持ち撮影にはやや使いにくいというので、買いました。

EF35mm F2 IS USM。


可搬性重視で普段は外してますが、ロック機構付きの花弁型フードが付いてきます。
撮影はCanon EOS-1D X + EF50mm F1.4 USM。

前モデルよりふた周りほど大きくなってちょっと引いてしまいましたが(てっきりEF24mm F2.8 IS USM と同じくらいと思っていたが実物はもっと大きい。実際にはEF50mm F1.4 USMと比べても一回り大きい)、それほど重くなく、1Dとのバランスも良好でこれはとても使いやすいです。


いずれもCanon EOS-1D X + EF35mm F2 IS USM

そして何よりも動画!動画!静止画も含め、手ブレ補正能力は抜群。
手振れ補正の安定感、絞り解放時の減光感がとてもとても僕の好みです。
ISを効かせた手持ち動画撮影(簡易リグは使ってますが)のテストを兼ねて、初詣を撮ってきました。

初詣 from Zeissizm (Koichi Ito) on Vimeo.

描写性と開放で撮ったハイライト感、ぐっと来る感じこそ C/Y Distagon にゆずりますが、開放からはっきりした写り、絞ってぱきぱきの現代的描写。可搬、速写、AF、そして何より手ブレ補正。持ち歩いて、使って、撮って、調整して出力するまでを含めて考えると、総合力がとても高いレンズです。

素敵写真を撮るために必要なたったひとつの冴えたやり方

たぶんひとつではない。


写真には「記録」と「表現」の二つの側面を持つのだとよく言われます。ですが、普通カメラを手にするとまず意識するのは「記録」の方面であることが多く、そのままの意識で写真を撮っていても、実は「表現」にはそのまま向かいません。ですので、写真で何かを伝えたいな…と思う人は、これまでの撮り方と、少しだけ方法を変えてやる必要があります。

で、今日紹介したいのは、「表現」を意図した写真の撮り方で、私が良いなと思っている、ないしは気をつけていること。

「写したいものを写して、写したくないものは写さない」

というルールです。

あたりまえじゃないか。そうです。当たり前です。
じゃあ自分の写真でそれが出来ていますか、と言われると、それがなかなか難しい。

実はこのルール、真の意味は、

「貴方は画面に映り込んでいるものすべてについて写すべきか写すべきでないか判断をしなさいよ」

ということじゃないかと思っています。画面の構成要素に対して全て気を配りなさいよ、ということです。「写真は引き算」とよく言われるらしいですが(白々しい)、私はそれも真の意味はこれと同じだと思っています。何を引くのか。何を足すのか。

「あーコレが見せたかったんだろうなーとは思うが他にもごちゃごちゃ写っててなに撮りたいのかがさっぱり伝わってこない写真」と書くと私も黒歴史がいろいろと引きずり出され、赤面して布団を被り「あああああ」と叫んでしまいそうです。皆さんにもその経験はあるのでは…?

その写真で見せたいもの以外が写っていると、見る側はそっちにばっかり気を取られてしまって、肝心のメインディッシュがボケてしまいます。とはいっても言うは易し、行うは難しで、なかなか気を配りきれないのも確かなのですが…。

デジイチ買った!でも撮れる写真があんまり素敵じゃない…?」という場合は、自分の写真を見直してみましょう。
画面に余計なものがはいってませんか?狙ってないのにごちゃごちゃした写真になってませんか?
狙いじゃなければ、シンプルに。必要なものだけをさっくりと切り取ってやりましょう!

とりあえず写っていることが重要な「記録」が目的な場合は別ですが、もし自分の撮った写真を他人に見てもらって何かを感じて欲しい!と思う場合は、このルールを自分に課してみると良いと思います。